福岡でのご縁と本の出会いー『夕暮れに夜明けの歌を』
今回は今までとは少し趣向を変えて、ご縁、本との出会いについてお話したいと思います。
今年が秋月黒田の藩が成立してから400年の節目の年であることは少し前からご紹介してきました。その関連で、昨日、福岡県朝倉市秋月にて、野点(のだて)のお茶会があり、そこに呼ばれて参加をしてきました。
野点というのは、普通お茶席でイメージされるクローズドのお茶室とは異なり、自然の下で、茶室を見立てた竹の枠組みに入り、お茶をいただく、カジュアルなお茶会でした。
このお話も、藩校の話や今年の11月12日に秋月で行われる鎧揃え(武者行列)とともに別途ご紹介していきたいのですが、今回は、その際、福岡・博多で出会った本のことをお伝えしたいのです。
たまたま、つい先日、ロシアによるウクライナ侵攻を一つの題材にしたリスクマネジメントについてのセミナーでお話をする機会を得たのをきっかけに、自分とロシアとの出会いや関係を振り返る時間を得ました。1993年夏から1年弱でしたが、ロシアのサンクトペテルブルクに語学の研修に参加してロシア語の勉強をしたこと、その後モスクワでの駐在員経験などを経て、あらためて自分にとってのロシア、ウクライナはなんだったのか?を考えるようになりました。
今の事態に関してロシア(プーチン大統領)の行動を正当化することはできない、難しいのはそうですが、自分が付き合ってきたロシアの市井の方々、ウクライナの人々、を思い出すにつけ、この戦争は一体何を我々に突き付けているのか。そんなことなどを考えるようになりました。今の国際的な、そして日本での戦争をめぐる報道のあり方にすごく疑問を抱いていた中で、今の状況をどういう言葉で語るのが自分にとって自然なのか、をずっと考えるようになっていたのです。
そんな流れで、福岡県に来る機会を得て、時間の合間を縫って本屋に飛び込み、ロシアの自然についての描写を読んでみたいと思い、ミハイル・ショーロフの『静かなドン』を読んでみたいと捜したのですが、在庫ゼロ。本屋の中をあちこちを見て回ったのですが、なく、時間もないので本屋を出て秋月に向かおうとして、たまたまロシア文学の棚の一部にあったのが、奈倉有里さんの『夕暮れに夜明けの歌を 文学を探しにロシアに行く』(イースト・プレス)です。
これは何かが起こるかもしれないと思い、ほぼ即決で手に取って本屋を後にしました。
そしてその後、移動時間などの隙間時間でしたが、ページをめくる先からぐいぐいと本の中の世界に引き込まれていき、あっと言う間に読み終えてしまいました。
ネタバレをしたくないので、でも是非、是非、手に取ってお読みいただきたいです。
個人的には、ロシア、サンクトペテルブルク、モスクワなどなど、私とは勉強の深さ、質、意気込みは圧倒的に違いますが、でも文章から流れ出るロシアの香りが思い出されます。
そして、この本では、市井(といっても大学という枠ではありますが)のロシア、そしてウクライナや、ベラルーシといった、我々のメディアで文字や映像では「単語」としてしか出てこない情報を、生の人のこととして表現されています。
内容は最後まで読み進めていくと、「あっ!」と思わせられる展開自体もさることながら、この奈倉さんが使う言葉の一つ一つが魔法のように読む人の中に、染み入ってくる感じです。言葉の使い方、表現がうーんと唸らせられるとともに、ロシア人であろうが、ウクライナ人であろうが、どこの人であろうが、真剣に生きる人の生き様は読む我々の心を打つものがあるように感じます。自然と涙があふれるような、そんな気がします。
ロシアの小説や詩の作家の名前がたくさん出てくるのですが、それはあまり気にせずに読んでいかれることをお勧めします。
最後に、ネタバレをしたくないと言いつつ、あとがきの部分にあった表現をご紹介したいと思います。
「人には言葉を学ぶ権利があり、その言葉を用いて世界のどこの人とでも対話をする可能性を持って生きている。しかし私たちは与えられたその膨大な機会のなかで、どうしたら「人と人を分断する」言葉ではなく「つなぐ」言葉を選んでいけるのかーその判断は、それぞれの言葉がいかなる文脈のなかで用いられてきたかを学ぶことなしには下すことができない。
文学の存在意義さえわからない政治家や批評家もどきが世界中で文学を軽視しはじめる時代というものがある。おかしいくらいに歴史のなかで繰り返されてきた現象なのに、さも新しいことをいうかのように文学不要論を披露する彼らは、本を丁寧に読まないがゆえに知らないのだーこれまでいかに彼らとよく似た滑稽な人物が世界じゅうの文学作品に描かれてきたのかも、どれほど陳腐な主張をしているのかも。
(中略)
文学が記号のままではなく人の思考に近づくために、これまで世界中の人々がそれぞれに想像を絶するような困難をくぐり抜けて、いま文学作品と呼ばれている本の数々を産み出してきた。だから文学が歩んできた道は人と人との文脈をつなぐための足跡であり、記号から思考へと続く光でもある。もしいま世界にその光が見えなくなっている人が多いのであれば、それは文学が不要なためではなく、決定的に不足している証拠である。
今世界で記号を文脈へとつなごうとしているすべての光に、そして、ある場所で生まれた光をもうひとつの別の場所に移し灯そうとしているすべての思考と尽力に、心からの敬意を込めて。」
お勧めしたいです。