皆さん、こんにちは。
ゴールデンウィークはいかがお過ごしですか?
ゆっくり過ごされた方、いや、実は仕事があって大変だったとか。皆さま、それぞれのゴールデンウィークを過ごされたのではないでしょうか。
コロナ禍の時のことを思うと、隔世の感がありますね。マスクを外している方も増えて、あのコロナの時は一体なんだったのかと思わざるを得ないですね。そんなコロナ禍で縮こまっていた身体を大きく手や腕を広げ、空気をたくさん吸って、我々のこの平和を尊く味わいたいと思いました。
さて前回までは、新渡戸稲造氏の『武士道』を題材に武士道とは何かを紹介してきました。このシリーズではしばらく新渡戸稲造氏の『武士道』を一緒に読み解きながら、日本における武士道の現代的な意味や意義を考えていきたいと思います。
ところで我々秋月黒田は、黒田官兵衛、黒田長政につながる黒田長興(ながおき)を初代として、現在の福岡県朝倉市秋月などを領有していました。秋月藩は石高でいうと5万石でしたが、1万石以上が大名家ですが、江戸の約300ほどあった藩の中でもだいたい真ん中あたりの大きさの藩でした。
秋月藩は1623年に藩として成立したわけですが、昨年2023年はなんと立藩400周年に当たる記念すべき年でした。その1623年は関ケ原の合戦から20年以上もたち、そして豊臣政権が崩壊する大阪夏の陣(1615年)から8年も経過した、そんな時代だったわけです。
ここに至るまでの日本史の流れをみると、室町時代末期から続く戦国時代を織田信長、豊臣秀吉と経て、徳川家康がようやく全国を統一し、その後260年以上平和な時代を築き上げたのは歴史で学ぶことですね。
その後、島原の乱が1637年から1638年にありましたが、この乱が鎮圧されたことにより、その後しばらくは大きな内乱もなくなり、名実ともに平和な社会になっていたと言われます。
秋月藩は黒田官兵衛や長政が活躍をした時代とは少し状況が違った中で藩が動き出すことになりましたが、そんな中で武士(サムライ)としての規律が緩まないようにというのが藩の運営上最も難しい課題だったのではないでしょうか。
従って、他の大名家も多かれ少なかれそうであったように、藩の子弟のための教育施設である藩校の設立が秋月藩でもありました。稽古館(けいこかん)という名前ですが、そこで行われていた教育はとても重要な人材教育、育成の場として機能していました。
様々な教育のプログラムがあり、それはまた追ってご紹介していきたいと思いますが、こういった人材育成、教育に関して、一本の筋として通っていたものが、「武士道」であったと思います。
ここで、新渡戸稲造氏の『武士道』に繋がってきますが、その第一章の「武士道とはなにか」の中で、私が好きな部分の一つがあって、それが以下の内容です。
「(武士は)年を重ねるに従い生活範囲が広がり、人間関係が多方面にわたってくると、当初の信念はそれ自身を正当化し、満足させ、発展させるために、より高き権威や合理的な支持を求めるようになる。もし、武士が殺し合いの軍事的なものだけに頼り、より高き道徳的な拘束力なしに生きたとするならば、武士の生活の中に武士道なる崇高な道徳律は生まれなかったであろう。」
ここでは「より高き権威」というような宗教であったり、天皇といったそれこそ「権威」であったり、自分以外の第三者からお墨付きや認めてもらうことで、自分のしていることが正しいということを示したいということを言っています。
武士道というものは、単なる殺し合い、戦うこと自体を追求するものではなく、自分自身の中に何かを作り上げることを指していて、そして、それが日本の多くの人に道徳的な影響を強く与えていたということを新渡戸氏は説明してくれています。
「自分自身の中に何かを作り上げること」、このことにとても大切なエッセンスがあるのだろうと思います。
さて、今回はこれくらいにして、次回は続けてこの武士道の源泉と考えられるものを探っていきましょう。