秋月黒田城主のつぶやき

ほんわか、明るく、楽しく、でも凛と生きるための応援歌

黒田官兵衛、水五訓その後

こんにちは。

以前こちらのブログで、黒田官兵衛水五訓の紹介をしたことがありました。

 常に己の進路を求めてやまざるは水なり、という訓の紹介もしたことがありました。

 

清濁合わせ飲む、という言葉もありますが、日本人はこういう状況、振る舞いが好きなのではないかと思えます。もしかしたら、最近は変わってきているのかもしれないですが、甘いものも苦いものも、両方あるよ、嘘も真実もともに人間世界ではありうること、否定できない現実として、受け入れて進んでいこうと。

 

自らが進んでいく先に何が待っているのかは、他人にも、そして自分にも分からないものかもしれないですね。予定調和の世界などそもそもないと思いますし、計画、予想したところで、色んな想定外のことが起こりうるのが現実世界でしょう。

 

大事なことは、歩みを止めずに、進んでいこうとする姿勢、求め続ける熱意なのではないでしょうか。そして、その前提として、進んでいこうとする人への思いやり、優しさを持って接することで、逆にそれを受け入れる人にも思いやり、優しさが返ってきて、人の繋がり、絆を強めていく循環が生まれる。そこにこそ、人間が幸せを感じられる根本ではないかと思います。

 

分断、オンライン、という言葉を聞くことが多いご時世ですが、幸せのサイクルを感じあえる世の中にしていきたいと思います。

笑う門には福来る。このような時にこそ。

最近は塩沼亮潤氏の本を読んだり、お話を聞くことが多いのですが、その中に「笑顔をたやさない人には自然と幸福がおとずれます。花を見て怒る人がいないように、笑顔を見て怒る人もいません」と書いてあるのを見ました。

 

「大きな夢や目標に立ち向かっていくときこそ、心が豊かであり、潤っていなければなりません。その心のゆとりがあってはじめて、ものごとが成就いたします。

せっかく皆さんのためにと努力していても、自分だけがつらく苦しいことに耐えているのだという、いかにもつらそうでゆとりのない姿を見ても誰も元気にはなりませんし、人は寄ってきません。どんなに困難をかかえているときでも、常に明るく、軽やかに、そして、のびのびした心でいることです。それが、自分と皆さんの心の幸せにつながることであると思います。」ともあります。

 

笑顔も時と場合により、見る人によっては場違い、不謹慎など、受け止め方に違いがあることもあるでしょう。皆、余裕がなくなってきていると尚更そうかもしれません。

 

でも、政治家や上に立つ人であればあるほど、こういうこと、姿勢を意識して、うまく振る舞えるよう心がける必要があるように思います。よく言われる「高貴な者の責任」(ノーブレス・オブレージ)として、周りの人を幸せな気持ちにさせる雰囲気、というものもあるのではないかと最近はとみに感じます。「あの人は何故か憎めないね」、「まあ大変だけど、あの人がそう言ってるから仕方ない、頑張るか」。そんな空気感を作れないものか、といつも思います。

 

特にアメリカでは「分断」ということが強く言われるようになりました。世界のリーダーとしての振る舞い、あり方として疑問に思われるような事態が多く見られるようにもなっています。他の国から見て、模範にならない、理想とは思えない様相ではないでしょうか。

 

人は、不幸せになろう、不幸せにしてやろうと積極的に思って何かを企むことはそんなに多くはないと信じますし、実際そう思います。例えば、政治家もそうではないでしょうか。でも、結果として多くの国民からそう思われているとすれば、結果責任は政治家の方にあるのではないかとも思います。

 

コロナ禍での緊急事態宣言の再発動、という状況に直面する昨今こそ、難しい環境下、笑顔で力強く、「皆さんと一緒に幸せになるため頑張ろう」と言い切れる政治家やリーダーが望まれます。

 

粘り強く、しなやかに、笑顔も忘れずに過ごしてまいりましょう。

令和三年 新年を迎えて 大峯千日回峰行者・塩沼亮潤住職のお言葉

皆様、新年おめでとうございます。

本年も何卒宜しくお願いします。

 

昨年はもう言うまでもなく、コロナ禍のことが話題からなくなることのない一年でした。直近の動向などを見る限り、ワクチン接種が始まっていくものの、当面この情勢は変わらないと思っていた方がよさそうです。そのような中、大晦日の恒例の紅白歌合戦もそうですが、歌という人に勇気、元気を与える行いを通じて、この世の中、まだまだ捨てたものではない、頑張っていこうと思える瞬間もあろうかと思います。大きな変化がない日常の中で、いかに自分の心の持ち方をうまく整えられるかが大切なのではないでしょうか。

 

最近、大峯千日回峰行者である、大阿闍梨、塩沼亮潤氏の本を読みました。詳しいお話は是非塩沼氏の著書などをお読みいただきたいのですが、この大峯千日回峰行とは、奈良県吉野山金峯山寺蔵王堂から大峯山と呼ばれる山上ヶ岳までの往復48キロ、高低差1300メートル以上の山道を16時間かけて一日で往復し、合計四万八千キロを歩き続ける、足掛け九年に及ぶ長く厳しい修行のことです。この行を、平成11年に吉野・金峯山寺1300年の歴史で2人目となる満行を果たされた方です。塩沼氏の著書の中で以下のフレーズに出会いました。

 

修行中、525日目の日誌の言葉です。そのまま引用します。

「人の心は誰でも幸せになれると思います。

しかし、そこに至るまでが四苦八苦です。

心の持ち方次第で幸せにもなるし、不幸にもなります。

答えは心の中にあります。

決して逃げないで、くじけないで、

死んだ方がいいなんて思ってはいけない。死んだら終わりです。

人生の春夏秋冬、辛抱していれば、必ず春は来る。

卑屈にならず、苦しみから逃れず、受け止めて乗り越える。

そう。種を植えて、一日で咲いた花はありません。

うしろを振り向くより、いまを強く、しなやかに、辛抱することです。」

 

人それぞれの人生、境遇があり、様々なレベルでの局面での自分自身の境遇の受け止め方には違いもあるでしょう。なんとか心の持ちようをより良い方に向かわせられないものかと、私自身も日々悩みつつ生きていきたい、そんなことを共有できればと願っています。

本年も何卒宜しくお願いします。

 

憲政の神様

皆様、こんにちは。

コロナ禍の動向がまだまだ不透明な状況ですが、いかがお過ごしですか?

 

仕事の進め方のスタイルもリモート、在宅勤務、田舎に引っ越してのオンラインでの勤務など、一気に選択の幅が広がり、新生活様式、という風にも言われています。

 

コトバ(言葉)と、コトバにならない思い、想い、気持ち、心の動き、沈黙の持つ意味など、コミュニケーションは難しいけれど、だからこそ人間は面白いなと感じることが多く、コトバと非コトバについて考えることが多い今日この頃です。

 

林 新・堀川恵子 『狼の義 新 犬養木堂伝』(角川書店、2019年)を読み終えました。犬養毅のことを描いたノンフィクションですが、明治時代から満洲事変あたりまでを中心に憲政、政党政治、そして戦争への道に流れ込む激動の時代を、犬養毅とは別の人物を通じて語るように描かれていて、読む人を惹き込んでいく筆力がすごいなと思いながら、一気に読み進めました。実はこの本は、半ば偶然、半分必然的とも言える流れで辿り着きました。

 

先ほど最近コトバ、あるいは非コトバについて考えることが多いと言いましたが、色々と考えている時に、本当に、ポーンと、犬養毅のことが浮かび上がりました。話せばわかる、とか、問答無用とか、そういうやりとりが知られるところがありますが、現実がどうだったかはともかく、コトバを介しての何らかの人間ドラマがあるに違いないと思ったのです。知っているようで、実はあまり知らない犬養毅について、何かないか、と探している時に、堀川恵子さんのこの本に辿り着いたのです。今まで堀川恵子さんの本はその他の本を含めて複数読んでいたのもあり、すぐに手に取りました。

 

法律や政治について学んでいると、よく、人権、民主主義は闘いを経て獲得された長い歴史があると聞きます。この本からは、犬養毅や同時代の政治家、メディアの方々がそれこそ命懸けで、進歩、退歩、膠着を繰り返しながら、闘いを通じ、幾多の挫折もへながら、実現してきた現実が理解できます。そして戦争への道も描かれています。普通一般の教科書で数行で記述されることが、実は数行では説明し切れない奥深い背景が隠されています。

 

その面でのドラマもとても重く面白いのですが、一方で私が興味を覚えたのが、人の沈黙の力、ということのように思います。様々な場面で、様々な人物の沈黙があり、政治やその他の意思決定の場で、時には主役の位置を占める働きをなすことがある。その沈黙の意味を汲み取る力も試されているように思いました。そこの描写もあって、人間のドラマが一つの完成形になるとでも言えるように感じたのです。

 

さて、オンライン、リモートでのコミュニケーションはどうでしょうか。

人間にとって大切なコトバは、非コトバとともにあって、高度な観察力や温度感など複雑な要素を持つもののように考えます。

 

憲政の神様の本を通じて、色々と考えさせられる日々が続きます。

政治家の方々にも読んでいただきたい一冊だと感じました。

 

コロナウィルスー人類の叡智と心穏やかな日々を過ごす

皆さま、こんにちは。

 

最近の気候の変化、花粉症の始まりなどから、世の騒動とは関わりなく、季節の移り変わりは、何の途切れもばたばたもなく、粛々と進んでいるのだなと実感します。街を見渡してみても、桜の開花、蕾の膨らみからもそれらを伺い知ることができます。

 

コロナウィルスに関連して様々な騒動、企業や人々の行動への影響、株価への影響などが毎日のように報道されています。もちろん、単純なことではないことは承知の上で、手洗い、うがい、マスクなど、自分たちでできることはするという意識が大切なのでしょう。また、危機管理の基本原則ですが、「いてはならない場所、時間帯にいないこと、近づかないこと」という基本動作も踏まえる必要があるかと思います。

 

コロナウィルスの騒動が取り沙汰されるようになってから思い出されることがあります。秋月黒田藩の藩医であった緒方春朔が、天然痘に対する予防接種である人痘種痘法という方法を1790年、我が国で初めて成功させ、全国に広めた、ということです。この方法は、別に有名なジェンナーの牛痘種痘法とは異なる手法のようですが、緒方春朔の成功はこのジェンナーの成功より6年早いということで、その偉業が称えられています。天然痘は紀元前より、伝染力が強く死に至る疫病として人々から恐れられていたようですが、緒方春朔、ジェンナーを始めとした人類の叡智により、種痘の普及で発生数は減少し、WHOが1980年5月に世界根絶宣言を行なっています。

 

人類の歴史を振り返ってみる余裕は、気ぜわしい日常ではなかなか持てないかもしれません。ただ、株価、バブルもそうですし、ウィルスの話も、歴史は人ごとでもあり、繰り返すものですね。悪い局面もあれば、緒方春朔のような叡智が出て、解決策の提示があり、良い局面に流れていく。社会が複雑にもなり、管理面で色々な思惑等あり、悪意を持った人物、グループなども現れても、人類の賢い叡智にも期待しつつ、桜の美しさ、儚さを愛でる、穏やかな心持ちで日々を過ごしていきたいものです。

新年おめでとうございます

皆さま、新年明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。

 

昨年も色々なことがありました。平成が終わり、新しい元号、令和の時代に移り変わりました。いつも思うことですが、時代が移り変わる中にあっても、人として、人間として守るべき事柄、大切にしたい誠は大きく変わらない。そう思います。

 

日本には従来から学びを大切にする環境、風土があります。寺子屋、藩校などなど。先日も山口県萩の明倫館、松下村塾に行ってきました。江戸時代には各藩には藩校がありました。福岡県朝倉市秋月にも、稽古館がありました。

 

人材育成は人財育成であり、地方再生は地域の宝を再発見する『地宝再生』です。大きく構えなくとも、例えば、それぞれの地元にある歴史を紐解きながら、その土地ならではの物語を蘇らせ、色々な物、事柄とくっつけていく。それを発信していく。

 

そういう活動を地道に進めていくことがそれぞれの豊かな人生の時間となっていくと思います。そのような活動をしていきたいと考えています。

 

本年も皆さまにとって善い年でありますように。良い年にしていきたいですね。

昔あって今ないもの

皆さま

 

こんにちは。

いきなりなぞなぞやとんちのような話ですが、とある講演集になるほどと思わせられる話がありましたので、紹介したいと思います。

 

生け花(その方はいけはな、とおっしゃっています)の家元の方が、家元を継がれるに際して何を考えられたかから始まり、いけはなとは何か、日本文化とは、道とは、和とはなどなど、とても興味深く、示唆に富むお話でした。私の関心と重なり合う部分も多く、当主とは何か、武家とはどういった存在だったか、武士道とはなど、考えるところでもありますので、あらためて話を進めていきたいと思います。

 

今日はその中でも一つ、お題に戻りますが、「昔あって今ないもの」。

その家元が別の方とお話されている時に、そのお相手の方が、「昔あって今ないものは『畏れ』と『憧れ』ではないでしょうか。」と言われた。その家元が、「今、私たちは畏れをあまり感じません。偉大なるものに畏れを感じる心、雲上の人々に対する憧れの心があって初めて品がよいものが生まれるということです」と言われたのは、なるほどと思いました。

 

台風、洪水、大豪雨、大震災があって、我々はなすすべもなく、無力を実感します。その後、多くの人々の善意、好意などあり、ボランティアの活動などとても素晴らしいことだと思います。そういったお話を聞くと、そこに何か、社会をよくしていこう、支え合っていこうという意識、善の可能性を見い出すことができるかもしれません。私自身はなかなかそこまでできないのも事実です。

 

ただあえて言えば、何ものかに対する畏れ、敬意を、受け身でなく、より積極的に意識することで日々の心持ち、自然や周りの環境に対する接し方も変わり、引いては社会全体で守っていこうという動きにつながっていくのではないか、と考えています。

 

その為には具体的には何があるのか、できるのか。先人たちの知恵、まだまだ全国にたくさん眠っているであろう古文書にも、その解、ヒントがあるのではと思う今日この頃です。