今の世に繋がる藩校、寺子屋の価値〜第17回全国藩校サミット・山口県萩大会の振り返り〜
皆様、こんにちは。
今日は一昨年、令和元年11月末に山口県萩市で開催された第17回全国藩校サミット萩大会の一コマを振り返り、ご紹介したいと思います。
そもそも全国藩校サミットとは、一般社団法人漢字文化振興協会が主体となって、全国の藩校関係者同士の学術文化交流を通じて、漢字文化を後世に伝えていくという基本理念のもと、平成14年から全国各地で開催されるているものです。同協会は平成8年4月から活動を開始していますが、当時会長には三重野康元日銀総裁が就任されるなど、その役割、使命の重要性の理解が伺いしれます。
明治維新胎動の地、山口・萩で藩校サミットが開催されたのは上記の通り、コロナ禍の騒動の前、令和元年に遡りますが、同大会で、東京大学史料編纂所の本郷和人教授が「藩の学びと明治維新」という題目で記念講演をされています。
また機会をみてさらにご紹介したいと思いますが、寺子屋が幕末の安政から慶応にかけての14年間には年間300を超える寺子屋が開業していた、とか全国で16,560軒の寺子屋があったこと、また勉強したこととして、いろは、方角・十二支などから始まり、読み書き算盤、地理、人名、書簡の作成方法など、実生活に必要とされるものを学んだことなども紹介ありました。また藩校についても、諸藩が藩士の子弟を教育するために設立した学校で、藩士子弟は強制入学、武芸も奨励、7〜8歳で入学して第一に文を習い、後に武芸を学び、14〜15歳から20歳くらいで卒業。教育の内容は、四書(儒学の基本文献。「大学」「中庸」「論語」「孟子」の総称)五経の素読と習字を中心として、江戸後期には蘭学や、武芸としての剣術等の各種武術などが加わった、との話もありました。
山口県は当時ご存知の通り、長州藩でしたが、その藩校は明倫館でした。上記した通り、全国にたくさんあった藩校の中でも、水戸藩の弘道館、岡山藩の閑谷学校と並び、日本の三大学府の一つと称されることもあったとのこと。長州藩は富裕だったこともあり、藩士の教育に熱心であったようです。ただ、藩士の子弟しか入学できなかったため、勉学を志す軽輩の若者は吉田松蔭の松下村塾のような塾、寺子屋に行った、とのことです。
いずれにせよ、日本中の幅広い層にわたって勉学の精神が広がっていたことが近代日本の発展に大きく寄与したであろうことは間違いないでしょう。ちなみに、福岡秋月黒田藩(現朝倉市、秋月)には稽古館という藩校がありました。これもまた機会をみてご紹介したいと思います。
ちなみに、この時宿泊したのは萩本陣という宿でしたが、とても落ち着いたところで、朝には松陰神社、松下村塾にも散歩して行けるくらいの便利のよい場所にあり、食事も温泉も満足で、癒しの時間を過ごさせていただきました。