秋月黒田城主のつぶやき

ほんわか、明るく、楽しく、でも凛と生きるための応援歌

秋月黒田と武士道ー武士道⑤「義」ー武士道の礎石

皆さん、こんにちは。

 

新緑の季節、気持よくお過ごしですか?

。。。と言いながらも、まだ天気がおかしい様子ですね。近年いわれている「気候変動」の影響がやはり強まっているのか、晴れたと思ったら雨が降ったり、と落ち着かないように感じます。

 

しかし、そんな時こそ、今一緒に考え、学んでいる「武士道」の精神で淡々と向き合って過ごしていきたいものだと思います。

 

さて、前回は「武士道の源」というお話をしました。仏教や神道との関係や影響などについても話が及んだかと思います。そして欧米、特に欧州の騎士道との比較などもポイントとしてあったと思います。さらには、武士道は、知識だけではなく、むしろ行動を重んじるということも大切な点として紹介しました。

 

今回は、そんな武士道の教えの中でももっとも厳格な徳目と言われる「義」について、今まで同様、新渡戸稲造氏(新渡戸氏)の『武士道』から抜粋、引用しながら紹介していきたいと思います。「第三章 義ー武士道の礎石」をみていくことになります。

 

江戸時代の有名な学者、林子平は義について次のように言っています。

「義は自分の身の処し方を道理に従ってためらわずに決断する力である。死すべきときには死に、討つべきときには討つことである」

 

あるいは、真木和泉守(まきいずみのかみ)という武士は

「武士の重んずるところは節義である。節義とは人の体にたとえれば骨に当たる。骨がなければ首も正しく上に載ってはいられない。手も動かず、足も立たない。だから人は才能や学問があったとしても節義がないと武士ではない。節義さえあれば社交の才など取るに足らないものだ」と言っています。

 

有名な孟子が「仁は人の良心なり、義は人の道なり」といったとの紹介もあります。

 

この第三章の注目すべき、考えさせられるポイントは「義」の派生語としての「義理」について展開されている考察です。

 

「義理は文字通りの意味は『正義の道理』である。だが、次第にそれは世論が果たすべき義務と、世論が期待する義務感を意味するようになってしまった」とあります。

 

「義理」というものは人間社会がつくりあげた産物だ、そういった環境の中では義理を果たすためには「愛」といった特別な動機があったが、人間自身が作った社会的な習慣などによって人間関係も変化が見られるようになり、時を経るごとに曖昧になり、堕落した、としています。

 

「『義理』は『正義の道理』として出発したにもかかわらず、しばしば詭弁のために用いられ、非難されることを怖れる臆病にまで堕ちてしまったのだ」と。

 

ただ、ここで「武士道」が果たした役割が説明されるのです。

「もし武士道が明確な正しい勇気と、敢然と耐えうる精神力を持っていなかったとすれば、義理は即座に卑怯者の詭弁となっていたであろう」と。

 

武士道があったからこそ、「義理」というものが我々日本社会において、もともとの意味のものとして維持される力が残っていた、ということかと思います。

 

今回のお話、「義」と「義理」についてはすこし難しい内容が続いたかもしれません。でも、少なくともある時期までは強く我々日本人が大切にしていた価値観であり続けたものでしたし、今でもそのフレーバーが残っているように感じます。

我が秋月黒田も、その家臣団も、「義」に生きるということを実践していたと思いますし、時代が下った幕末・明治の新時代に入ってからの「最後の仇討ち」とされる「臼井六郎の仇討ち」なども「義」に生きる人物のドラマの一つではないかと思います。

 

翻って、黒田官兵衛豊臣秀吉に仕え続けた関係性、さらには官兵衛の父・黒田職降(もとたか)が当時の君主・小寺氏に仕え続けたこと等も、黒田家の「義」に生きることを大切にしてきた家系だったことを示すものではないでしょうか。

 

現代の世にあっても大切にしたい価値観の一つです。

 

武士道 新渡戸稲造のことば

 

コトバの玉手箱~奥深い日本語!~②「やばい」

皆さん、こんにちは。

前回から、ブログの新シリーズとして始めたものですが、2弾目の今回は「やばい」!です。

 

最近の「やばい」の使われ方と、一定の年齢層から上の方々の使う「やばい」は内容が異なるようです。最近はこの「やばい」の新しい使い方にひっぱられて、案外、この新「やばい」の活用が広がってきているようにも見えます。

「大谷選手、『やばい』よね!」というような言い方ですね。

 

黒田官兵衛、『やばい』よね」という言い方の場合は、もしかしたら有岡城の幽閉で命の危険にさらされていることをさしたり、「官兵衛、秀吉の逆鱗に触れて、『やばい』よね」というように、なんらかの危険にさらされている、ピンチの状況をさしたりというのが以前からの意味のように思います。

 

さて、前置きはともかく、ここではこの「やばい」について、簡単にことばの元々の意味などを紹介したいと思います。

 

「やばい」

日本国語大辞典」をみてみると、次のように書いてあります。

 

「『やば・い』(「やば」の形容詞化)

危険や不都合が予測されるさまである。危ない。

もと、てきや・盗人などが官憲の追及がきびしくて身辺が危うい意に用いたものが一般化した語」

とあります。

 

ちなみに、ここである「てきや」とは、お祭りや縁日、市などが催される境内、門前町、盛り場など人通りの多いところで屋台や露店を食べ物や玩具などを出す業者さんのことをさしますね。

 

一方で「現代用語の基礎知識」をみてみると、次のようにも説明されています。

「あぶない・最悪な状態にも、すごくいいとき・最高の状態にも使う。意味は文脈によって決まる。「マジやばい」」

冒頭で挙げた大谷選手の例などはここで説明されている意味で使われることが多いですね。

 

でも、よくよく考えてみると、確かに文脈によっては、大谷選手の場合も「あぶない」「あまりよくない状態」でも使われるのかもしれません。

 

大谷選手の専属通訳として有名だった水原一平氏の違法賭博への関与や銀行詐欺などの件はメディアを騒がしている例ですが、そんな中での大谷選手の状況は、「やばい」ということばが使えるかもしれません。それでも、大谷選手の活躍は毎日のように報道されています。「やばい」状況を跳ね返すすばらしい力があるのでしょう。

 

黒田官兵衛についても、先に「秀吉の逆鱗に触れて『やばい』」と書きましたが、そんな中、官兵衛が取った迅速な対応は危機管理の面でも一つの危険回避策であったと思われます。

 

自分や黒田家にとって危険や不都合を察知し感じ取った官兵衛はすぐさま秀吉に隠居を申し出て、長政に家督を譲ると願い出たという場面がありました。秀吉は官兵衛を失うことをよしとせずに隠居を認めなかったと言われています。

 

官兵衛は「やばい」状況を察知して、「やばい」やり方で危機を回避した、と言えるのかもしれません。

 

日本語って奥が深いですね!

 

(参考)「やばい」がつく本を探ってみたら、やはり「やばい」ほど出てきます。

学校では教えてくれない ヤバい科学図鑑

国立天文台教授がおどろいた ヤバい科学者図鑑

地学博士も驚いた! ヤバい「地球図鑑」

深すぎてヤバい 宇宙の図鑑 宇宙のふしぎ、おもしろすぎて眠れない!

 

黒田官兵衛を中心に扱った司馬遼太郎氏の歴史小説。(1)から(4)巻まで)

新装版 播磨灘物語(1) (講談社文庫)

 

 

 

 

 

 

秋月黒田と武士道ー「武士道」④武士道の源とは

皆さん、こんにちは。

 

早速、前回からの続きとして、今回は「武士道」の源について確認していきたいと思います。少しお勉強的な要素が強いかもしれませんが、お付き合いください(笑)。

 

皆さん、「武士道」はどこから生まれてきたかわかりますか?

新渡戸稲造氏の『武士道』の冒頭には「日本の象徴である桜と同じように、日本の国土に咲く固有の華」というようなものだとあります。

 

この『武士道』の第二章にはこの武士道の源についての紹介、説明が続きます。

そこでの内容は日本の歴史や文化の成り立ちの理解にとってもとても参考になると思います。

 

まずは「仏教」との関係から説明がなされています。そして「禅」にも触れられます。武士道に仏教が与えられなかったものが「神道」によって補われたと説明されています。

この章では海外での生活や経験が豊富でキリスト教信者の新渡戸氏ならではのキリスト教との比較、古代ギリシャの教え、ローマ人の宗教観などとの相違なども織り交ぜてあり、とても説得的な解説がされています。

 

「武士道は、道徳的な教義に関しては、孔子の教えがもっとも豊かな源泉となった」とあり、「君臣、親子、夫婦、長幼、朋友」などといった今の社会にも残る(ただし、以前よりは影響が薄くなってきている、変化している)関係のあり方についても守るべき考え方、ルールのようなことが武士道を通じて示唆されます。そして、孔子に加えて孟子の教えも、武士道に「大いなる権威をもたらした」とされています。このように「孔子孟子の著作は、若者にとっては主要な人生の教科書となり、大人の間では議論のときの最高の権威となった」とあります。

 

中には我々の勉強のあり方の戒め、気を付けるべき点もあります。次のような文章は特に私自身も頷けることと思いました。

 

「知識というものは、これを学ぶ者が心に同化させ、その人の品性に表れて初めて真の知識となる」「だから、知的専門家は単なる機械だとみられた。要するに知性は行動として表れる道徳的行為に従属するものと考えられたのである」。また「武士道におけるあらゆる知識は、人生における具体的な日々の行動と合致しなければならないものと考えられた」とあります。

 

今の世の中で、人の振る舞いが回りへの配慮を欠いたものであったり、自己中心主義などが強まっているのであれば、それはこれらの言葉をよく噛みしめ、戒めにするのがよいと思います。さらには「AIか人間か」というような対立した設定で議論がされる時も、そこでの人間にはここで言われる「知性」を伴った人間であることが望まれるように思います。

 

今回の回の最後に神道と仏教についての説明で興味深い点がありますので、それらを紹介したいと思います。

 

神道に関しては「神道の自然崇拝は、われわれに心の底から国土を慕わせ、祖先崇拝はそれをたどっていくことで皇室を国民全体の祖としたのである」とあり、神道の教義に「愛国心」と「忠誠心」という二つの大きな特徴が含まれるといっています。これらについては、現れ方に違いがあるにせよ、英国やその他の国でも多かれ少なかれ現れうる特徴でもあると思います。

 

仏教に関しては「武士道に運命を穏やかに受け入れ、運命に静かに従う心をあたえた。それは危難や惨禍に際して、常に心を平静に保つことであり、生に執着せず、死と親しむことであった」とあります。最後の「死と親しむ」というくだりは別の機会にもう少し考えてみたいと思いますが、「運命を穏やかに受け入れる」や「運命に静かに従う心」、「危難や惨禍に際して、常に心を平静に保つ」というあたりは、黒田官兵衛有岡城で幽閉された時のこと、またその際、織田信長に官兵衛が寝返ったのではないかと疑われ、その子長政(当時「松寿(しょうじゅ)」)を殺害せよと命ぜられた時のことなどを思うと、現実問題、こういった「心を平静に保つ」という姿勢や向き合い方を持たねばならなかったのではないかと思います。

 

そして、関ケ原の合戦の間、官兵衛が九州地方を軒並み平定してまわったが、子の長政の「活躍」のおかげで予想よりも短期間で関ケ原の合戦が終わってしまったということがありました。そこで徳川家康から官兵衛に九州での進軍を止めるようにと指示があった時に、実は天下取りの野望を持っていたのではないかとされる官兵衛の心境、心持はいかばかりのものであったか。それを思うと、「運命に静かに従う(心)」というものを官兵衛は強く感じていたのではないかと思わざるを得ないです。

 

これらの出来事をみてみても、「武士道」というものが行動やふるまいの端々に表れているように思います。今回はこれくらいにします。次回も続いていきます。

 

武士道 新渡戸稲造のことば

 

 

 

 

(新シリーズ)コトバの玉手箱ー日本語に敏感になろう!まずは「しかと」!?

皆さん、こんにちは。

 

このブログでは、つれずれなるままに、でもテーマを設定して、歴史を軸にしつつも、それが今の社会や世界にどんな影響があるのか、どんな良い影響を及ぼせるのかを考えて発信し、皆さんに紹介していこうとしています。

 

それとは別に、最近、なんとはなしに「我々の日本語の美しさや音の響き、そして漢字や平仮名の形を大切にしたい」と思うようになり、日本語をもっと知りたいと思うようになっています。

 

そんな私が日常で偶然を含めて出会ったコトバに焦点を当てて、なんとはなしにざっくばらんに語っていきたいと思っています。それがこの「コトバの玉手箱」を発信したいと思ったきっかけです。どんな風に流れていくのか、自分でもよくわかりませんが、こうご期待!

 

という1回目に相応しいかどうか微妙ですが(笑)、今回は「しかと」。

「しかと」?

 

たまたまとある所で立って何かを待っていた時に、横を通った女性の2人組の声が聞こえてきたのです。「いや、それってしかとじゃない?」「そうかしら」「そうよ、そうよ」

 

何故かこの「しかと」という言葉にピンときてしまったのです(笑)。なぜなんでしょう?そういえば、何故「しかと」という言葉なんだろうか。どこからきた言葉だろうか。

 

モトさん(私のことです)が調べたところ、以下のようなことがわかりました(但し、真偽不明)。Wikipediaからです。

 

「特定の対象(主に人)を無視すること、つまり冷遇することや存在しないものとして扱うことを指すことば。元々はヤクザ(暴力団)の隠語だったが、一般の間でも使用されている。」

 

へえ、そうなんですね!?ヤクザの隠語から一般でも使われるようになったとのことですが、最初に使った一般人は一体だれで、どんな経緯で知ることになったんでしょうね。(笑)日本語の奥深さを思い知ることとなりました。

 

さらに「語源」まで見てしました。

「はな札で10月(紅葉)の10点札が、そっぽを向いた鹿の絵柄であることから転じて、博徒の間で無視の隠語となった。」

 

へえへえ、そうなんですね。

確かにみてみたら、鹿がこんな風になっていました。そうだったんですね。

 

花札の絵柄(鹿)

しかしながら(注、ここの「しかしながら」は「しか」とは関係がありません。。。)、古来、鹿の遠音を愛でるのは文化人、風流人の嗜み(たしなみ)だったとのことで、そんなことを前提にした逸話が残っているという。

ある秋の夜、鹿の遠音を楽しむため、酒席を設けられ、数人の男性が集まった。そこでの話題は暗い話題ばかり、大の男が集まって、身の上話で、挙句の果てには、男性が涙を流して話をする始末。

そこで、ある男性が「鹿が泣きませんね。どうしたんだろう」と障子を開けると、庭に大鹿がいて、「人間がなくのを聞いておりました」と。

 

「しかと」はせずに、話を聞いて、聞いて、そして一言でもいいので返してあげましょう!

 

日本語は面白く、奥が深いものですね。

 

秋月黒田と武士道ー「武士道」③武士道とはなにかー殺し合いのためにそれはあるのか?

皆さん、こんにちは。

ゴールデンウィークはいかがお過ごしですか?

 

ゆっくり過ごされた方、いや、実は仕事があって大変だったとか。皆さま、それぞれのゴールデンウィークを過ごされたのではないでしょうか。

 

コロナ禍の時のことを思うと、隔世の感がありますね。マスクを外している方も増えて、あのコロナの時は一体なんだったのかと思わざるを得ないですね。そんなコロナ禍で縮こまっていた身体を大きく手や腕を広げ、空気をたくさん吸って、我々のこの平和を尊く味わいたいと思いました。

 

さて前回までは、新渡戸稲造氏の『武士道』を題材に武士道とは何かを紹介してきました。このシリーズではしばらく新渡戸稲造氏の『武士道』を一緒に読み解きながら、日本における武士道の現代的な意味や意義を考えていきたいと思います。

 

ところで我々秋月黒田は、黒田官兵衛黒田長政につながる黒田長興(ながおき)を初代として、現在の福岡県朝倉市秋月などを領有していました。秋月藩は石高でいうと5万石でしたが、1万石以上が大名家ですが、江戸の約300ほどあった藩の中でもだいたい真ん中あたりの大きさの藩でした。

 

秋月藩は1623年に藩として成立したわけですが、昨年2023年はなんと立藩400周年に当たる記念すべき年でした。その1623年は関ケ原の合戦から20年以上もたち、そして豊臣政権が崩壊する大阪夏の陣(1615年)から8年も経過した、そんな時代だったわけです。

 

ここに至るまでの日本史の流れをみると、室町時代末期から続く戦国時代を織田信長豊臣秀吉と経て、徳川家康がようやく全国を統一し、その後260年以上平和な時代を築き上げたのは歴史で学ぶことですね。

 

その後、島原の乱が1637年から1638年にありましたが、この乱が鎮圧されたことにより、その後しばらくは大きな内乱もなくなり、名実ともに平和な社会になっていたと言われます。

 

秋月藩黒田官兵衛や長政が活躍をした時代とは少し状況が違った中で藩が動き出すことになりましたが、そんな中で武士(サムライ)としての規律が緩まないようにというのが藩の運営上最も難しい課題だったのではないでしょうか。

 

従って、他の大名家も多かれ少なかれそうであったように、藩の子弟のための教育施設である藩校の設立が秋月藩でもありました。稽古館(けいこかん)という名前ですが、そこで行われていた教育はとても重要な人材教育、育成の場として機能していました。

様々な教育のプログラムがあり、それはまた追ってご紹介していきたいと思いますが、こういった人材育成、教育に関して、一本の筋として通っていたものが、「武士道」であったと思います。

 

ここで、新渡戸稲造氏の『武士道』に繋がってきますが、その第一章の「武士道とはなにか」の中で、私が好きな部分の一つがあって、それが以下の内容です。

 

「(武士は)年を重ねるに従い生活範囲が広がり、人間関係が多方面にわたってくると、当初の信念はそれ自身を正当化し、満足させ、発展させるために、より高き権威や合理的な支持を求めるようになる。もし、武士が殺し合いの軍事的なものだけに頼り、より高き道徳的な拘束力なしに生きたとするならば、武士の生活の中に武士道なる崇高な道徳律は生まれなかったであろう。」

 

ここでは「より高き権威」というような宗教であったり、天皇といったそれこそ「権威」であったり、自分以外の第三者からお墨付きや認めてもらうことで、自分のしていることが正しいということを示したいということを言っています。

武士道というものは、単なる殺し合い、戦うこと自体を追求するものではなく、自分自身の中に何かを作り上げることを指していて、そして、それが日本の多くの人に道徳的な影響を強く与えていたということを新渡戸氏は説明してくれています。

 

「自分自身の中に何かを作り上げること」、このことにとても大切なエッセンスがあるのだろうと思います。

 

さて、今回はこれくらいにして、次回は続けてこの武士道の源泉と考えられるものを探っていきましょう。

 

武士道 (岩波文庫)

武士道 新渡戸稲造のことば

 

 

 

秋月黒田と武士道ー「武士道」②力と美の対象、ノーブレス・オブリージュ

皆さん、こんにちは!

お元気ですか?

 

さて、前回は武士道の概観として「武士道とは何か?」ということの大まかなお話しをして、新渡戸稲造氏の書いた『武士道』の紹介を始めたところでした。

 

今回はその新渡戸氏の『武士道』の中からこれはご紹介したいと思う内容をいくつか抜粋して説明していきたいと思います。

 

「武士道は、日本の象徴である桜花と同じように、日本の国土に咲く固有の華である。それはわが国の歴史の標本室に保存されているような古めかしい道徳ではない。いまなお力と美の対象として、私たちの心の中に生きている。たとえ具体的な形はとらなくとも道徳的な薫りをまわり漂わせ、私たちをいまなお惹きつけ、強い影響下にあることを教えてくれる。」(PHP研究所Bushido 武士道 新渡戸稲造のことば」から)

武士道 新渡戸稲造のことば

 

これは新渡戸氏の『武士道』の冒頭の書き出しの部分です。新渡戸氏が『武士道』を書いたのは初版が1899年12月だったので、明治も32年ほどたった時期ですね。

この冒頭の書き出しから推察されるのが、明治も30年以上たってくると、「武士道」も当時の社会においても一般的には「古めかしい道徳」と捉えられるようになってきていたことが伺えます。

 

それでも、日本の象徴たる桜と同じ、「日本の国土」に咲く「固有の華」でもあり、さらにはいまなお「力と美」の対象として、私たちの心の中に生きている、そういう存在なのですね。

 

ここで興味深いと感じるのが、「武士道」とは一般的な印象では「力」に関係することと想像してしまうと思います。しかし、ここでは「美」の対象でもある、ということで、「美」にも関係してくる、ということです。

 

この「武士道が『美』にも関係してくる」という部分については、これからおいおいと『武士道』を読み進めていく過程でその関係性などを確認していきたいと思います。

 

さて、新渡戸氏の『武士道』はもともとの原本は英語で書かれたものですが、その後日本語に翻訳されて我々日本人の多くの手に届くようになったという流れがあります。そこで「武士道」とは英語で何と表現されているか。

 

Chivalry(シバルリー)という単語を使っていますが、これは「騎士道」という意味で使われているものとのことで、それを日本の「武士道」をどう訳するかという段でこのChivalryを使っています。これは日本の武士道との比較を意識した使い方だったようです。但し、新渡戸氏の『武士道』では騎士道と武士道との歴史的な比較研究はこの『武士道』の中ではメインのテーマではないということで展開しないと言っています。

 

そして、「武士道」の定義のようなことを説明している箇所にたどり着きます。

「武士道は、、、武士階級がその職業、および日常生活において守るべき道を意味する。一言でいえば、『武士の掟』、すなわち、『高き身分の者に伴う義務』(ノーブレス・オブリージュ)のことである」と説明しています。

 

「武士道」が、高き身分の者(武士)に伴う義務、ノーブレス・オブリージュであるという風に言われていますが、武士の義務であるという話からも、やはり「武士道」は武士にとってとても大切な、特別なものであることが伺えます。

 

それでは今回はこれくらいにして、次回はさらに先に進んで行きたいと思います!

 

秋月黒田と武士道ー「武士道」①概観

皆さん、こんにちは!

 

前回、直近に行った黒田塾のセミナーを受けて、久しぶりにこちらのブログでアップしました。その際、「ふるさと・拠り所」と「武士道」ということをテーマにお話をしたと伝えました。

 

今後、黒田塾で行おうとしていることを皆さんに順次伝えていきたいと思っていますが、今回は「武士道」についてです。武士道については、1回ですませられるほど簡単、単純なものではありませんので、折に触れて扱っていきたいと考えています。

 

これから、「武士道」について、どういったことなのか概観していきたいと思います。前回お伝えしました黒田塾での第1回講演会では、武士道とは「武士階級がその職業、および日常生活で守るべき道。武士の掟、すなわち、高き身分の者に伴う義務(ノーブレス・オブリージュ)のことである」としています。「武士道」についてはおそらくその定義や解説は山とあると思いますが、私が参照したのは、新渡戸稲造氏が著したまさに『武士道』という本です。

 

新渡戸稲造1862年8月盛岡の生まれで、1933年にカナダで亡くなりました。まさに幕末最後の時代に生まれ、明治時代から昭和時代前期の教育者として有名な人物です。札幌農学校に学び、内村鑑三らとキリスト教に入信しました。当時、欧米に留学の経験もあり、京都帝大、東京帝大の教授、東京女子大学の学長等を歴任。そして大正9年1920年)に国際連盟国際連合の前身)の事務局次長にもなっています。「太平洋の橋」になることを願い、世界平和をとなえたと言われています。(以上、主に「日本人名大辞典」から)

 

その新渡戸氏が1899年、37歳の時に書いたのが、有名な『武士道』です。もともとは英語で書かれたものですが、それを日本語訳にしたものが我々多くが手に取る『武士道』という本になります。原文は以下のような内容で始まります。とても格調の高い英語だと評価もされています。

 

「Chivalry is a flower no less indigenous to the soil of Japan than its emblem, the cherry blossom; nor is it a dried-up specimen of an antique virtue preserved in the herbarium of our history. It is still a living object of power and beauty among us; and if it assumes no tangible shape or form, it not the less scents the moral atmosphere, and makes us aware that we are still under its potent spell.」

 

このChivalryという単語ですが、英語圏では「騎士道」という意味で通っているようですが、新渡戸氏としては、日本の「武士道」というものを海外の人々に紹介し、理解をしてもらおうとしていたわけで、その意味でも、欧米での「騎士道」になぞらえて日本の武士道を説明しようとした意図がわかると思います。

 

さて、この「武士道」について、次回以降で順次紹介していきますが、新渡戸氏の『武士道』を参照しながら、秋月黒田家の活動、活躍を武士道という文脈でお話していきたいと思います。

 

今回はこのあたりで!

(以下、「武士道」関連での書籍ご紹介)

武士道 (岩波文庫)

武士道 新渡戸稲造のことば