サムライ、武士道の精神と我々の生活と

こんばんは。

 

前回こちらのブログに記事を載せた後、家のことで色々と対峙することが多く、こちらに来ることが正直できませんでした。子供たちの受験やらスポーツの試合に関わるメンタルのあり方、指導者との向き合い方等など。実際に課題に向き合っているのは子供たちではありますが、子供たちに対すると同様に、我々親に対しても考えさせることが多々あり、日々深い時間を過ごさせてもらっています。

 

話は若干それるようですが、最近、「残りの人生であとどれくらいの良書と巡り会い、読めるのであろうか?」と思うことが多いのです。人生80年?、90年?、先のことは分かりませんが、それほど多くは読めないかもしれません。読書を楽しみにしている方の場合は特にそんなことを思うことがあるかもしれません。

 

自分にとって20年以上も前に一度読んだ本で、先ほどお話をした、ここ最近の子供たちとの時間を通じて、新渡戸稲造氏の『武士道』を改めて読み直してみたいと実感し、読んでいるところです。以前に読んだ時には子供たちもおらず、読んだということは覚えていますが、正直な話、世の中との「取っ掛かり」がなかったのか、内容についてあまり覚えていなかったのです。面白いものですね。まだ我が家、我が身にとっての武士道とは何かまで落とし込んでいませんが、今の自分の身の丈にとって気になる記述を紹介したいと思います。

 

義は、武士道の掟の中でも最も厳しい教訓である。サムライにとって、卑劣な行動や不正な行為ほど忌むべきものはない。

義とは、勇気を伴ってなされる決断する力のことである。道理にまかせて決断をし、いささかも躊躇しない心をいう。死すべき場合には死に、討つべき場合には討つことである(この部分は林子平の定義)。

勇気は、義をなすために行われるものである。そうでなければ、徳としての価値はほとんどない。武士道においては、死に値しないことで死ぬのは、「犬死」と呼ばれた。

水戸光圀はこう述べている。「戦いに臨んで討死することは、難しいことではない。それは、とるに足らない者にでもできることである。生きるべき時に生き、死ぬべき時にのみ死ぬことを、本当の勇気というのだ」。いやしくも武家に生まれた者は、「大勇」と「匹夫の勇」との違いをわきまえない者はいなかったであろう。

 

これらをどう解釈し、自身の糧とするかは別の機会に譲りたいと思います。

ただ、「義」を重んじた亡き父の誕生日であり、また終戦の日が近い今日、その父を偲んでこの文章を捧げたいと思います。