北朝鮮問題、キューバ危機、そして武士道教育

こんばんは。

前回原稿をあげてから、慌ただしく過ごしておりました。

 

グローバルな環境では北朝鮮のミサイル危機が耳目を集め、以前のキューバ危機ではありませんが、米国を中心に世界の大国の思惑や事案の見方によっては、対処の仕方が誤った方向にいきかねない事態とも言えます。

 

今のところ、北朝鮮を取り巻く回りの大国の方針に一定の擦り合わせが行われていることが窺われますが、これも盤石ではないかもしれません。

 

先日から武士道についての書籍を紐解きながら、私自身、今後の日本人にとって必要な、有益な振る舞い、勉学やものの見方は何があるのかについて、ヒントを求め続ける日々が続いています。その武士道の中で気になったくだりがありましたので、記載しておきたいと思います。

 

ー武士道を支える三つの柱は、智、仁、勇、すなわち知恵、仁愛、勇気であるとされた。サムライは本質的に行動の人である。

 

ー哲学と文学の二つは、サムライの知的な訓練の主要な部分をなしていたが、これらにおいて武士が求めたのは、客観的な真理ではなかった。哲学は軍事的あるいは政治的な問題を究明するため、そうでなければ人格形成の実践的な助けとして学ばれた。

 

ー(武士道の教育課程にある)柔術は、攻撃および防御に解剖学的な知識を利用したもの。柔術は、相撲とは異なり、筋肉の力に頼らない。また、他の攻撃法とは違って武器を用いない。

その技は、相手の身体のある部分を掴み、あるいは打って麻痺させ、抵抗できなくするものである。その目的は、相手を殺傷することではなく、一時的に相手を動けないようにすることにあるのだ。

 

現代との違いはもちろんあるものの、考え方として、「相手を動けないようにする」戦略なるものを日本こそが考え抜く必要があるように思います。今からでも遅くはないでしょう。

 

黒田官兵衛と孫子の兵法、そして戦闘を超えた人格養成

こんにちは。

武士道とはというテーマの中で、戦さ、これは広い意味で人と人との関わり、交わりと言えるかと思いますが、戦術や戦略を考えることは、すなわち人を考えることなのだと最近とみに考えるところです。

 

黒田官兵衛は幼少期、泣き虫でかつ本の虫であったと言われていますが、当時の軍師として、当然孫子の兵法を読み、実際の戦いでその教えを使いこなしていたようです。一つの例として挙げられるのが福原城攻め(兵庫県佐用郡)の際の戦法です。城を囲む際、全部を包囲せず、一ヶ所逃げ道を作っておき、そこに逃げてきた敵を討ち取る、というものです。こういった戦いを続け、播磨地方で、毛利陣営ではなく織田陣営への引き込みに大きな貢献をしたとされます。 

 

時代は先に進みますが、官兵衛の有岡城の戦いでの幽閉は有名な話かもしれません。

約一年間牢獄に幽閉され、その時の不自由の影響で脚を悪くしたのですが、窮屈で不自由な幽閉生活の癒しとなったのが、牢獄から見える藤蔦であったと言われています。鳥や虫と植物との交わりや、その成長の様を眺めながら、生命の息吹を感じ取り生きる、生き抜くことの意味を見出したのではないでしょうか。

黒田家の家紋が藤巴である由来はここからきているものです。

 

官兵衛に限らず多くの戦国武将が音楽や詩歌の愛好家であったことは、こういった例からも頷けるような気がするのです。孫子の兵法といった兵法書に限らずに、幅広く、平家物語太平記のような無常観ある軍記物語もよく読まれていたようです。連歌や詩作など豊かな精神文化が醸成されてきた背景の一つに、人間に対する深い洞察があったのではないかと考えます。

 

優美な感情を養うことが他人の苦しみに対する思いやりを生む。

人間としての生と死を考える場合、特定の部位、症状に限定せず、感情を含めた人間全体を観る、考える姿勢がますます大切になってきているように思います。

サムライ、武士道の精神と我々の生活と

こんばんは。

 

前回こちらのブログに記事を載せた後、家のことで色々と対峙することが多く、こちらに来ることが正直できませんでした。子供たちの受験やらスポーツの試合に関わるメンタルのあり方、指導者との向き合い方等など。実際に課題に向き合っているのは子供たちではありますが、子供たちに対すると同様に、我々親に対しても考えさせることが多々あり、日々深い時間を過ごさせてもらっています。

 

話は若干それるようですが、最近、「残りの人生であとどれくらいの良書と巡り会い、読めるのであろうか?」と思うことが多いのです。人生80年?、90年?、先のことは分かりませんが、それほど多くは読めないかもしれません。読書を楽しみにしている方の場合は特にそんなことを思うことがあるかもしれません。

 

自分にとって20年以上も前に一度読んだ本で、先ほどお話をした、ここ最近の子供たちとの時間を通じて、新渡戸稲造氏の『武士道』を改めて読み直してみたいと実感し、読んでいるところです。以前に読んだ時には子供たちもおらず、読んだということは覚えていますが、正直な話、世の中との「取っ掛かり」がなかったのか、内容についてあまり覚えていなかったのです。面白いものですね。まだ我が家、我が身にとっての武士道とは何かまで落とし込んでいませんが、今の自分の身の丈にとって気になる記述を紹介したいと思います。

 

義は、武士道の掟の中でも最も厳しい教訓である。サムライにとって、卑劣な行動や不正な行為ほど忌むべきものはない。

義とは、勇気を伴ってなされる決断する力のことである。道理にまかせて決断をし、いささかも躊躇しない心をいう。死すべき場合には死に、討つべき場合には討つことである(この部分は林子平の定義)。

勇気は、義をなすために行われるものである。そうでなければ、徳としての価値はほとんどない。武士道においては、死に値しないことで死ぬのは、「犬死」と呼ばれた。

水戸光圀はこう述べている。「戦いに臨んで討死することは、難しいことではない。それは、とるに足らない者にでもできることである。生きるべき時に生き、死ぬべき時にのみ死ぬことを、本当の勇気というのだ」。いやしくも武家に生まれた者は、「大勇」と「匹夫の勇」との違いをわきまえない者はいなかったであろう。

 

これらをどう解釈し、自身の糧とするかは別の機会に譲りたいと思います。

ただ、「義」を重んじた亡き父の誕生日であり、また終戦の日が近い今日、その父を偲んでこの文章を捧げたいと思います。

 

 

 

 

 

徳川家康、黒田長政と黒田官兵衛

こんばんわ。

 しばらく慌ただしくしており、書きたかったこちらのブログにもあまり来れずにおりました。

 

日本史におけるとを問わず、人物理解、人物の間でどのような会話がなされたかを理解することは、この社会のあり方や行く末などを理解する上で鍵となることもあります。

 

これはよく言われている話ですが、天下分け目の関ヶ原の戦いが予想以上にあっけなく短期間で終了したのも、黒田長政が西軍(豊臣方)であった小早川秀秋を裏切らせ東軍(徳川方)につかせたり、毛利軍を戦いに参戦させなかったりしたこと等があったと言われています。そして、それは長政の策略のおかげとも言われます。

 

一方の官兵衛は関西地方での関ヶ原の戦いを尻目に、遠く離れた九州地方の制圧を目論み、進撃を続けます。しかし、関ヶ原の戦いで東軍があっけなく勝ったため、家康も進撃を続ける官兵衛に停戦命令をし、あえなく官兵衛は組織した軍を解散し、奪った領土は家康に献上することになった、という話です。

 

徳川家康はこうして戦いに貢献した長政の手を取って、長政を最大限讃えたとのことです。この話を官兵衛にしたところ、官兵衛は長政に「家康はお前のどちらの手を取ったのか」と問いかけ、長政が「右手であった」と返したのですが、その時官兵衛が「その時、お前の左手は何をしていたのか」と長政に言ったという話は、官兵衛の人、彼のその時の想いを物語るエピソードですね。

 

近年、北朝鮮問題やら、そもそも米国でトランプ大統領がどういう発言をしているのかなどに世界の人々が、誤解を恐れずにいうと、振り回されていたり、政策を掴むために注目を集める傾向が強まっています。いわゆる地政学リスクがクローズアップされているが故に、ますます特定の人物の理解がますます重要になると思います。

 

先日、子供の学校の歴史授業で、歴史上の人物の顔等が表された絵があり、2人いた登場人物に空白の吹き出しが記載されていて、それにセリフを考えて、記入するというプリントを持って帰ってきました。明確な答えはないと思いますが、色々な答えを考え、想像することが必要なとてもいい授業だなと思いました。

 

秋月黒田藩の藩校稽古館と日本語の情景

おはようございます。

 

秋月黒田藩の藩校は稽古館という名称で設立されています。

1775年に秋月黒田藩7代藩主黒田長堅公の治世において設立されたのが始まりとされていますが、その際は「稽古亭」という名称だった由です。

 

その10年ほど後、1784年頃拡張の動きあり、名称も「稽古観」と改められましたが、後1806年の大火で焼失し、新しく建築完成したのは1810年。その後いつかは不明ですが、いつからか「稽古館」の名称で認められています。

 

これら稽古館を巡る名称の変更から、日本語の語感が持つ美しさや情景を想起させる

力を感じます。また藩校が持つ役割も、当時は機能性がより要請されるように感じる現代の教育のあり方とは異なっていたことを想像させます。

 

「亭」は開放的な作り、周囲を閉ざす壁がなく、屋内は外の空間に開かれている、

また、景色や季節の移ろいを眺めたりするための東屋、という意味があるようです。

 

「観」は目に映った印象、物事の様子、状態、仏教においては、心の本性などを心の中で観察し、仏教の真理に到達する方法、という意味があるようです。

 

「館」は屋敷、公共の建物、施設を表す とされています。機能的な印象を感じる気が

します。

 

現代の生活は基本的には多くの人に開かれていると一般的に言われていて、確かにオープンが恩恵を与える場面もあるのでしょう。ただ、自然の移ろいを眺める中で人とは何かを考えたり、心の中で物事をよく観察しそこから何かを導く姿勢が失われているのかもしれません。

 

歴史は繰り返される、という格言から考えると、案外、過去の姿勢から学ぶことは多々あるのかもしれないと思う今日この頃です。

水五訓ー己の進路

常に己の進路を求めて止まざるは水。

 

五訓のその他の教えの中でも、表面上の動き、前進を最も感じさせる

訓がこれではないかと思います。

 

官兵衛が大勝負に打って出るのは人生のいくつかの局面でですが、

その局面のことを表している訓とも思えます。難局、苦境、苦渋に

耐えることが多かったようにも思えますが、戦略家としての官兵衛

の中で、水のように潔く、透き通る心で自らを突き動かしていく何か

があったのではないかと感じます。

 

それが何であったのか、水のような無私、静のように見えるものも、

実は融通無碍に変転するものでもあり、でも変わらない何かが水には

ある。官兵衛は何故、キリシタンとしての立ち位置をこの世で取るよう

になったのか。

 

歴史家による解釈はそれとして、現代にも蘇るテーマであると思います。

自らの解釈を作る作業はずっと継続しています。歴史を学ぶ意味をよく

考えるのですが、まだ答えはありません。

 

私にとって、水に流すことのできないテーマでもあります。

黒田官兵衛の水五訓

本当に暑い日が続きます。

熱中症にはくれぐれも気をつけて過ごしましょう。

 

秋月黒田藩の始祖は黒田長政の三男、長興(ながおき)になりますが、

その意味で、長政の父になる黒田官兵衛(如水)につながります。

 

その黒田官兵衛が残したとされる水五訓は秋月黒田家でも大切な

家訓として受け継がれています。

 

一. 自ら活動して他を動かしむるは水なり

一. 常に己の進路を求めて止まざるは水なり

一. 障害にあい激しくその勢力を百倍し得るは水なり

一. 自ら潔うして他の汚れを洗い清濁併せ容るるは水なり

一. 洋々として大洋を充たし発しては蒸気となり雲となり雨となり

雪と変じ霰(あられ)と化し凝(ぎょう)しては玲瓏(れいろう)たる鏡と

なりたえるも其性を失はざるは水なり

 

日本人は何かにつけ、水とは切っても切れない関係があると思います。

これから折に触れ、このことについて考えてみたいと思います。

 

しかしながら、水分補給を忘れずに。